【内容】
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- ラファエル・コランという画家
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- コランに師事した日本人たち
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- 日本人にとってのコラン
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- コランが日本から受け取ったもの
【報告】
今回のテーマは、19世紀おわりから20世紀はじめにかけて、フランス絵画の激動期を生き抜いたアカデミスム――伝統や権威を尊重する傾向――の画家ラファエル・コラン(Raphaël Collin, 1850-1916)の画業についてです。コランは、日本美術史でこそ、黒田清輝(1866-1924)や久米桂一郎(1866-1934)、岡田三郎助(1869-1939)といった「外光派」の洋画家の師としてよく知られていますが、フランス美術史では、忘れられた「大御所」のひとりとなっています。三谷さんは、コランの画業を、印象派や象徴主義といった同時代の流行を受容した様式展開を経糸とし、日本から留学してきたエトランジェの画家との交流を緯糸として丹念に辿ることによって、期せずして、現今の近代美術史が泥んでいるモダニスム――常に新しいものを求める傾向――に警鐘を鳴らすことになったように思います。
お話は、冒頭、コランを師とした日本人画家が紹介されてから、10年を画期として、それぞれの時代を特徴付けるコランの画業がスライドを通して提示されました。
1)初期−1870年代――アカデミスムの習得
エコール・デ・ボザール(官立美術学校)で優秀な成績を収め、1873年のサロン(官展)に入選した古典主義的な《眠り》(ルーアン美術館)――暗い背景の中に横たわる裸婦――をきっかけとして、以後、「裸婦を描く画家」という評価が定着した。また、暗い背景に人物を描くレンブラント風の肖像画を描いたり、テオドール・デック(Theodore Deck, 1823-1891)が開いた「ジャポニスムの陶器工房」に出入りして、表面に女性像などを絵付けした一点物の陶器を制作したりした。
2)1880年代――様式の確立
ジュール・バスティアン=ルパージュ(Jules Bastien-Lepage, 1848-1884)など「外光派」の友人との交流を通して、自然とのつながりを強め、《花月(フロレアル)》(アラス美術館)――明るい自然を背景とした裸婦――などで、「外光派アカデミスム」と呼ばれる様式を確立した。その女性像は、ダヴィッドやアングルなどの代表的な古典主義者たちの描く理想的な美しさをたたえた、品格のある/冷たいものに対して、どちらかと言えば、世俗性に傾き、卑俗で/暖かく、人間味がある。また、富裕層のお見合い用肖像画を描き、日本人画家との交流を通して、日本美術コレクションを始めた。
3)1890年代――大御所への道
フランス政府からオデオン座の天井画を依頼された。1889年頃に描かれた《オデオン座天井画のための下絵》(鹿児島市立美術館)などが残されているが、実物は行方不明であったところ、三谷さんが再発見されたとのこと。美術史学会での発表が待たれます。また、浜辺に裸婦を配した《海辺にて》(福岡市美術館)や、半身裸婦を俯瞰的に描いた《眠り》(FNAGP)など、実験的な試みを行い、黒田清輝や岡田三郎助などの日本人画家に影響を与えた。また、裸婦像に拘らず、着衣の婦人像も描いた。
4)1900年以降――新しい境地
同時代の象徴主義的な傾向を受容して、《静寂》(東京芸術大学大学美術館)など、抽象的な概念を女性像として表現する「擬人像」を描いた。また、江戸時代の浮世絵師・鈴木春信(1725?-1770)の描く可憐な少女――豊かな手の表情をもつ――に着想を得たという《田園恋愛詩》(千葉県立美術館)や、日本製の陶磁器の肌の質感を再現したともいわれる《異教的情景》(大嶽コレクション)など、日本美術との関係の深さを窺わせる作品を制作した。
三谷さんにとって、コランの研究は「大冒険」であるとのこと。このことは、三谷さんが、自らの研究を、フランス留学を含めて、危険を顧みることなく、成否の確実でないことをあえて行なうことであったと認識されていることを示しています。このような研究者の思い切った行動がなければ、おそらく、ひとりの画家が、美術史という「物語」の登場人物になることもないはずです。ご研究が、なおいっそう深化することを祈るばかりです。(K)