【目次】
- I.
美人画ポスターとは何か―問題の提起
-
- II.
美人画ポスターの歴史
- A)原点としての三越呉服店―1905年[明治38]の波々伯部金洲
B)業種横断的な波及―北野恒富と多田北烏
- III.
美人画ポスターの時代
- A)三越呉服店のデパートメント宣言(1904年[明治37])―消費社会の到来
B)広告メディアの変容―引札からポスターへ
- IV.
美人画ポスターの機能
- A)広告の機能と図像の2つのタイプ―換喩[隣接性]と隠喩[類似性]
B)源流としての歌麿美人画―「夏衣装当世美人」と「名取酒六家選」
- V.
美人画ポスターへの批判
- A)ポスター研究誌『アフィッシュ』の創刊―1927年[昭和2]の杉浦非水
B)近代的デザインの萌芽―杉浦非水《春の新柄陳列会》(1914年[大正3])
【報告】
いやー、チョッピリ疲れました。現役を退いてから、しばらく時間が経っているからですが、参加していただいた皆さんの表情サイン(なに?/なるほど!/へえー/おやっ/おかしいなあ/つまらない[無表情]など)のおかげで、なんとか乗り切ることができました。ご協力に感謝します。ということで、今回は、講座の担当者が自ら報告させていただきます。
今回のお話のテーマは、美人画ポスター。最近、よく街角で、「レトロポスター」とかと呼ばれている復刻版を見かけますね。ポスター研究者である田島奈都子さんによると、戦前(明治維新[1868年]~第二次世界大戦終結[1945年])に流通した商業用ポスターの約9割に女性が起用されているようなのですが、「美人画ポスター」という用語には、どうやら広狭両義があるようです。すなわち、広義には、女性をモチーフにするポスターのなかでも、流行の衣装や装身具を身に着け、魅惑的な表情や姿態をもつ女性=美人を描くもののことをいうようです。それに対して、狭義には、明治後期から大正にかけて、日本画などの手法で描かれた美人画の表面に(絵画空間の外側に)、企業名や商品名を書き入れて、多色刷り石版画など最新の印刷技術で制作されたもののことをいうようです。そこで、今回の講座では、なぜ、商品を買わせることを目的とするポスターに、美人あるいは美人画が用いられたのかについて考えることを目標にすることにしました。
そのために、まず、たくさんの実例を見ていただいたうえで、その歴史を概観し、美人画ポスターが、資本主義の成熟にともなう都市化の進行や、中等教育の普及を背景に、大衆による消費文化が誕生した大正時代において、正月用引札―年末に商店主が顧客に配る吉祥図像やカレンダー入りの印刷物―という地域密着型の広告メディアに取って代わるものとして流行したことを示しました。
一般的に、広告メディアにとって最も重要な役割は、それが、受容者(潜在的消費者)に対して、広告しようとする商店(正月用引札の場合)や商品(商業用ポスターの場合)を、価値あるもの(すばらしいもの)として表象することによって、商店との取引関係を保持させたり、商品を購入させたりするように仕向けることです。時間の関係で、お話の中では触れることができませんでしたが、例えば、フランスの記号学者、R・バルト(Roland Barthes)は「アストラ[マーガリン]で黄金の料理を」や「ジェルヴェのアイスクリームはおいしくて[私は]とろけてしまう」といったキャッチ・コピーを取り上げて、次のように主張します。
たしかにそうですね。では、広告メディアは、どのようにして、何かに価値があること、あるいは、何かがすばらしいこと―ここで言う「第二の記号内容」―を、受容者にすんなりと(自然に)理解させて、その何かを利用させたり、購入させたりすることができるのでしょうか。バルトによれば、「この商品はすばらしい」とだけ頭ごなしに主張したり、逆に、くだくだと商品特性を説明したりするのでは十分ではありません。というのも、前者の場合には、その主張に「打算的な目的性」―商品を買わせようとする目的を持つこと―が透けて見えますし、後者の場合には、「根拠のなさ」―価値に関する主張にはそもそも普遍妥当的な根拠がないこと―や「威嚇的説得のぎこちなさ」―その発言が一見、説明のように見えて、実は「買え」という命令であること―がつきまとったりするからです。
そこで、バルトが注目したのは、「キャッチ・コピー」です。まず、これは、「詩的な言葉使い」である点で、主張や説明とは異なりますね。ただし、「キャッチ・コピー」であれば何でもOKというわけではありません。バルトが注目するのは、アストラやジェルヴェの場合のように、何か(この場合は商品の効果)を「快楽(とろける)」や「黄金」とかといった、すでに多くの人によって価値あるものと認められているものに喩える(類似性を指摘する)ことによって、商品を買うことを「自然なこと」のように思わせる語り方(レトリック)なのです。バルトはあくまでも「言葉」の使い方を問題にしているのですが、このことを「視覚イメージ」に応用すると、次のように考えることはできないでしょうか。すなわち、美人画ポスターが、美人や美人画を利用するのは、そもそも「美人」というものが―そのあり様は時代や社会などに応じて変化するとしても―多くの人たちによって、すでに、価値あるもの、すばらしいものとみなされているからではないか。これが、今回のお話の結論というか仮説です。