【内容】
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大阪画壇は何故知られざる存在となったのか?
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大坂の四条派?
- 1、 大坂の四条派
2、 西山芳園と完瑛
3、 芳園・完瑛の愛好者
4、 芳園の作品
5、 完瑛の作品
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これからの大阪画壇――四条派の添え物から西山派へ
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大阪画壇の可能性
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これからの大阪画壇
【報告】
連続講座第4回目は、大阪商業大学公共学部教授の明尾圭造さんをお招きして、近年注目されている「大阪画壇」の話をしていただきました。明治以降の「日本画」世界の見取り図は、大きく「京都画壇」と「東京画壇」に二分された様相を示しています。「京都画壇」は竹内栖鳳を筆頭にして、綺羅星のごとき彼の弟子たち―土田麦僊、上村松園、小野竹喬等々―が形作りましたし、「東京画壇」は横山大観、菱田春草ら日本美術院の画家たちが中心となって形成されました。けれども、「大阪画壇」と言われても、どんな画家がいたのかすぐには思い浮かびません。
日陰の存在であった大阪画壇に光を当てた最初の研究者は、明尾さんの話にもありましたように、弊財団の理事であった関西大学名誉教授の中谷伸生さんでした。中谷さんは2010年に『大坂画壇はなぜ忘れられたのか』を上梓され、大阪画壇の再発見に大きな役割を果たされました。しかし、残念なことに、中谷さんは昨年11月新型コロナ感染症の後遺症のため逝去されました。すでに弊財団のホームページにも追悼文を掲載させていただきましたが、中谷さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
さて、明尾さんの話に戻りましょう。大阪画壇が、京都画壇や東京画壇のようには美術界の前面に現れず、「知られざる存在となった」理由としていくつかの要素が挙げられました。しかし、その最も重要な原因は、大阪画壇に属する画家たちが、商都大阪の商人たちの経済力を背景にして、その庇護の下で活動していたという事実にあるように、私には思われました。
江戸期から明治期にかけて、文化の中心であった京都には四条円山派以来の揺るぎない伝統があり、加えて京都府画学校という公立の美術学校も設立されました(1880年)。また、明治期になって徳川時代を引き継いで近代日本の首都となった東京には、官営の東京美術学校が設立され(1887年)、東京は京都と並ぶ美術の中心地となりました。
それに対して、大阪には国公立の美術学校は設立されず、財力のある大阪商人が、いわゆる「タニマチ」(パトロン。今でも大相撲の世界では時々使われる言葉ですね)となって画家たちを経済的に支援し、画家たちを囲い込んでいったということなのです。その際、それら大阪商人たちは、自らが「文雅」の主体となって「自娯の精神」(レジュメ1頁。「自娯」という言葉は「自分自身の楽しみ」という意味合いですが、中国の文人の精神を示す言葉のようです)を発揮したこと、つまり彼らが文人としての素養、教養をきちんと身に着けていたということが重要であったというご指摘であったと思います。
さらにまた、展覧会にしばしば出品されて人々にすでによく知られ、見慣れた京都や東京の画家の作品とは違って、大阪画壇の画家たちの作品は、「目垢が付くことなく」非出品主義の下でサロンの内でのみ愛好されたという点にも「知られざる存在となった」一因があるということでした。
明尾さんは、このような雰囲気全体を「床の間で愛された大阪画人」という言葉で表現されました。つまり、大阪画人たちは京都や東京の画家たちのように画壇の権威におもねることなく、その芸術は私的な空間の中で醸成されていったと理解することができるわけです。
このような大阪画壇の状況から、私には連想されることがあります。それは、この連続講座の最終回に話をしていただく「上方舞」の世界です。最終回は、上方舞山村流の山村侃さんに講座を担当していただきますが、「上方舞」は山村流に限らず―山村流、楳茂都流、吉村流、井上流を特に「上方四流」と呼ぶようです―、「座敷舞」とも呼ばれるように、花柳界の私的な空間で舞われた舞踊であり、それを支えたのはやはり財力も教養もある大阪商人だったのです。大阪画壇と上方舞には相通じるところがあるように思われます。最終回の山村侃さんのお話にもご期待ください。
また話がずれました。
大阪画壇の画家たちを具体的に紹介していただきました。特に取り上げられたのは、西山芳園・完瑛親子の作品です。明尾さんはこの二人の画家の系譜を「西山派」と名付け、これをキーワードとして大阪画壇を広く知らしめようとされています。
西山芳園(1804-1867)は京都四条派の画家松村景文に師事し、写生の技術を習得したということです。ですから、文人画/南画のように形をデフォルメして精神性を強く表出する画風ではなく、ものの形を的確に捉える作風であることが素人目にも分かります。確かに、明尾さんの説明にもありましたように、《旭日老松図》は、一見「写生」の祖である円山応挙の作品であるかのようにも見えますね。この作品には昭和17年のオークションで4199円の値段がついていたというお話も、興味深いものでした。今の価値にすると1000万円から1500万円くらいはする値段だそうです。すなわち、その当時西山芳園の作品つまりは大阪画壇の絵は高く評価され、まだ「忘れられ」てはいなかったということになるのだと思います。
芳園の作品に当時の庶民の暮らしぶりが描かれた、いわば「風俗画」と言えるものがあり、それも興味深く拝見しました。《七夕硯洗図》や《八日花(天道花)売り》がそれに当たると思います。《七夕硯洗図》は、七夕の前後に普段使っている硯や机を清めるために洗う風習で、手習の上達を願う行事だそうです。そんな風習は初めて知りましたが、試しに季語にあるかどうかを調べてみました。確かに秋の季語として「硯洗」、「硯洗う」、「机洗う」という語があることが分かりました。「硯洗ふ墨あをあをと流れけり 橋本多佳子」(この墨は青墨、松煙墨ですね)。
《八日花(天道花)売り》は、4月8日の灌仏会つまり花祭りの日に竹竿の先にツツジ、シャクナゲなどの花をつけ軒先に掲げる風習があり、その為の花を売る人の有様とのことです。「普通のおじさんが、普通の花を売ってる」(明尾さん談。多分正確ではありません)のとは違うのですね。私も、同じように思っていました。今では風俗史の貴重な史料でもあります。
芳園の息子、完瑛の作品もいくつか紹介していただきましたが、その中に明尾さんご自身が所蔵されている《秀吉撫勝家図》という面白い絵がありました。秀吉が柴田勝家の身体をマッサージしている絵です。本当にこんなことがあったのかどうかは分かりませんが、完瑛はなかなか洒落を効かせてこの絵を描いたと言えます。というのも、ご承知の通り、秀吉と勝家は信長亡き後の覇権争いで敵対し、秀吉が勝家を賤ケ岳の戦いで打ち破ったという間柄だからです。生真面目そうに見える完瑛の洒脱な面を見たように思います。
締めくくりとして、明尾さんは大阪画壇研究の今後の展望について話をされました。今日の講座のタイトルにもあるように、大阪画壇は美術史研究の「エアポケット」のようなもので「残された美術史の沃野」であるということを強調されました。具体的には、まだ未発見の作品がかつての大阪商人の蔵や箪笥などに多く眠っている可能性があること、近年海外での反響が大きくなっていること、展覧会が徐々に増えて市場的価値が高まる可能性があること等、大阪画壇研究を推進する諸要素が揃っているということなのです。
私はこれまで大阪画壇のことをほとんど知りませんでしたので、大変勉強になりました。特に、この画壇が大阪商人のサロンの中で展開したということは、今ちょうど編集会議を開いている『美術フォーラム21』第52号の特集テーマ(まだ未発表です)とも繋がるところがあって、興味深く拝聴しました。
しかし、今日の講座の内容もさることながら、私は明尾さんの「なにわ言葉」の柔らかな話しぶりに魅了されました。ふと、話芸の達人といわれた西条凡児を思い出しました(旧い名前で恐縮です)。「なにわ言葉」を自在に操り、今日のお話しぶりの域に達するためには、大阪で少なくとも三代は続いてないとだめでしょうね。ありがとうございました。(IN)
【会場の様子】

明尾さんの柔らかな「なにわ言葉」が聞こえてきそうですねえ。