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視覚文化連続講座シリーズ5 
「視覚文化の不易流行」
第5回講座レポート

竹久夢二

―「流行」が「不易」になった脱・超領域的作家―

岩城見一
(京都大学名誉教授、元京都国立近代美術館館長、きょうと視覚文化振興財団理事長)
日時:2025年1月18日(土曜)午後2時から3時30分
会場:同志社大学今出川校地寧静館N21教室
主催:きょうと視覚文化振興財団
【内容】
 はじめに  竹久夢二:超・脱領域的作家
 第1章  大正美人イメージの流通と「夢二神話」
 第2章  夢二のベルリン講義
 第3章  夢二と中国近代マンガの始祖豊子愷
 結び

【報告】
今年度第5回目の講座の講師としてお招きしていたリチャード・ウィルソン(Richard Wilson)氏(国際基督教大学名誉教授)の講義は、氏のやむを得ぬ事情のためにキャンセルになり、急遽その代役として岩城が以上の講義題目と内容に従って講師を務めさせていただくことになりました。ウィルソン氏の講義を期待しておられた方々にはお詫び申し上げます。
講義では、次回の第6回講座(2025年2月15日(土)において高畠麻子氏(高畠華宵大正ロマン館館長)による「高畠華宵のイマジュリイ世界」と題する講義が予定されていますので、財団で相談の結果、それを勘案して同時代に活躍し華宵と並ぶ人気作家になった夢二の多様な仕事を多くの図版を呈示しながら紹介し、これまで公にされてきた夢二に関する主要な証言や研究を挙げながら、その多様性と夢二人気の特徴をお話しすることにしました。 以下は講義の要約です。[ ] の箇所は、時間の制限上、講義ではお話しできなかった情報です。なお参考までに、この時に配布した「参考資料」も文末に入れておきます。(IW)



はじめに  竹久夢二:超・脱領域的作家
明治以後、日本は近代西洋の政治・文化制度に倣って制度を整え、芸術ジャンルも分けられ制度化されていきました。このような中で、明治期の終わりから昭和初期にかけて活躍した竹久夢二(1884-1934)の仕事は、時代の流れとは異なる「超境界的、脱境界的」と言えるような特徴を示しています。また夢二の作品は、専門家よりも大衆社会で人気を博し、後に夢二神話と呼ばれる世界が生み出されました。
夢二は「夢二式美人画」で有名になりましたが、その前に「マンガ作家」として知られるようになります。しかも夢二は、マンガや美人画の世界にとどまることなく、ポスター、絵葉書、新聞、雑誌、本などの挿画や装丁、「セノオ楽譜」の表紙デザイン、千代紙、封筒、便箋のデザインを生み出した、いわゆる「グラフィック・デザイナー」としても人気があり、さらに半襟、帯、浴衣、ネクタイのデザインも手がけ、夢二の美人画の中には、自身が考案した文様の和服を着た美人画もあることが指摘されており、「ファッション・デザイナー」としても注目を浴びていたことがわかります。さらに夢二は「人形」制作も試み、また子ども向けの絵本や「絵手本の作者」、「童話作家」、詩歌や小説など、「文学者」としても活躍しました。 人形が「工芸」に加えられて、1907(明治40)年からはじまった文部省主催の展覧会(文展)にはじめて出品されるのは、1936(昭和11)年の第一回「新文展」の時です。因みに「工芸」が、「文展」に加えられたのも、「文展」が「帝展」に変わった後の1926(昭和2)年でした。夢二は時代に先んじるかたちで人形制作のグループを作り、人形の魅力を伝えるために銀座で展覧会を開催しました。 
絵画についても夢二は、明治期に「芸術」の一分野として制度化される「絵画」とは別の道を進みました。夢二の美人画からわかるのは、夢二は「詩、書、画」を分離せず、また分離する必要もさほど感じていなかったということです。当時の批評家森口多里(1892-1984)は、夢二の絵画は「日本近代絵画史」の「主流」ではなく「傍流」で、そこには「格差」があると評しました。しかし森口は夢二を批判したのではなく、むしろ正統派の画家とは別の世界で才能を発揮している作家として好意的に評価しました。夢二は「タブローでは名をなさなかった」、夢二の作品には「都会」に住む「田舎者の個性」が出ている。しかし「それでよかったのだ」と森口は語り、それに続いて森口の夢二評の真意が語られています。「竹久君は人物に新しいタイプを与えた。というより、人物の新しいタイプを創造した」[森口1962、84頁]。森口は1930(昭和5)年の夢二たちの人形展(「雛に寄する展覧会」)を訪れ、それに対しても好意的な批評を書いています[同、森口86頁]。
作品を見ながら、このような夢二の多彩な仕事をたどってみたいと思います。

第1章 大正美人イメージの流通と「夢二神話」
父親の仕事のため一家は生地岡山から福岡に移っていました。夢二が家出するように一人で東京に出て通ったのは美術学校ではなく早稲田実業学校でした。在学中独学で線の技術習得に励んでいた夢二は、1905(明治38)年、21歳の時に、自作のマンガを雑誌『中学世界』に応募して「第一賞」になり、その後多くの雑誌にマンガや挿絵が掲載され人気作家になっていきました[長田1962]。これが夢二の絵画制作の出発点です。夢二の作ったマンガをはじめ絵画、短歌などが新聞、雑誌に掲載され注目を浴びます。当時発達してきた絵入り新聞、雑誌などの大衆向けメディアが20代後半にはじまる夢二人気の広まりに大きな役割を果たしたことについて優れた論文も公になっています[高橋2010、第2章]。
夢二作品を掲載していた当時の社会主義団体「平民社」の新聞『直言』と『平民新聞』にも夢二のマンガなどが掲載され[須山1962、125頁以下]、そのとき編集に関わっていた河本亀之助(1867-1920)が夢二に注目し、自らが設立した出版社洛陽堂から夢二画集を出版します[小野1967、15頁]。1909(明治42)年に最初の画集『春の巻』が出ます。夢二26歳のときです。画集には夢二自筆の美人画とともに版画や新聞、雑誌に掲載されたマンガも含まれていました。初版1000部はすぐに売り切れ、翌年に第2版から第7版まで立て続けに1000部ずつ出版されます。『春』に続き『夏』、『秋』、『冬』の巻も版を重ね、発行部数も3000、4000と増え、続いて『花』、『旅』、『野に山に』が出版され、『春、夏、秋、冬』の巻は「縮刷」版も出ています[長田1962]。これらの画集の表紙や画集に収められた絵や表紙を見ても、夢二が線の技術と色彩感覚に優れた画家だったことがわかります。
夢二は1914(大正3)年に妻「環(たまき)」のために「絵草紙店港屋」を開店します。この店は夢二のデザインした商品を売る、まさに夢二グッズ店で、絵本、風呂敷、袱紗、手拭、ネクタイ、千代紙、封筒、便箋、絵葉書などが置かれ、多くの客、特に若い女性が訪れる「東京名物」の一つになりました[渋谷1962、63頁以下、宮﨑1962、71頁、有本1967、217頁]。港屋は美術学校で学ぶ新しい芸術を目指す学生や文学者の交流の場にもなり、夢二は後に日本の前衛芸術を代表する作家となる恩地幸四郎(1891-1955)や普門暁(1896-1972)に大きな影響を与えました[渋谷同頁、小野1962および1967]。夢二の新しい芸術への貢献について語った恩地や普門の言葉も残されています[小野1,962、62頁、普門1962、134頁]。たまきと別れたことで「港屋」は二年後に閉店されますが、それを引き継ぐかたちで大阪の「柳屋」が夢二コーナーを設け、また京都の「つくし屋」にも夢二商品が置かれ人気を呼びました[「柳屋」については、中尾2011、41頁以下]。
夢二が港屋を描いた木版画もあり、たまきが客を迎える場面が描かれています。客の男性は帽子をかぶり当時の近代的な洋装で描かれ、たまきと客の女性はまさに「夢二式美人」になっています。軒先の大きな提灯には異国情緒をかもす南蛮船が見えます。もう一点には浮世絵風の芸者姿の女性と南画風の背景が描かれています。多くの出版社や作者が夢二に本や雑誌の装丁や挿絵を依頼し、また夢二自身が執筆と装丁との両方を行った小説や子ども向けの絵本や絵手本などが出版され、ますます夢二人気は高まっていきました。当時の夢二人気については、歌人の中原綾子(1898-1969)や宮崎白蓮(1885-1967)、歌手の淡谷のり子(1907-1999)の言葉も残されています[中原1962、宮﨑1962、淡谷1967]。夢二は白蓮の歌集、『踏絵』(1915)や『幻の華』(1919)の装丁もしており、表紙は近代西洋のアール・ヌーヴォー様式を取り入れた斬新な意匠になっています。
夢二のマンガ、美人画、雑誌、本、楽譜の表紙デザインや挿絵、千代紙、風呂敷、袱紗、手拭、封筒、はがきのデザイン等々、多くの作品を見ながら夢二の仕事をたどってきましたが、そこから夢二の芸術世界の特徴が明らかになってきたと思います。以下まとめてみましょう。
(1)
夢二は明治以後の近代化のなかで定着してきた「絵画」理解の枠には収まらない形式で絵画を制作し続けた画家であった。その特徴は、夢二の絵画においては多くの場合、絵だけでなく絵と詩(自作の和歌や小唄)が共存している点にある。このため当時主流になってきた純粋な「絵画」とはみなされず、「古い様式の絵画」とみなされてきた。
(2)
夢二の絵画は、しばしば江戸情緒を醸しだすモチーフが好んで取り入れられている。浮世絵風和装美人、長崎出島の港と南蛮船、キリスト教宣教師と芸者風美人の図。特に後の二種類の絵画は懐かしさを感じさせる異国趣味という特徴を示すものになっている。
(3)
これらと対照的に、夢二は当時のヨーロッパの風俗(服装、調度、小物、家屋など)のデザインを作品に取り入れ、それらを背景にした多くの若い女性(少女)像(美人画)も描いている。
(4)
洋装だけでなく和服姿の女性の場合でも、胸の位置近くにまで帯が高い位置に描かれ、足の長さが強調されている。
(5)
夢二の発表の場は、初期のわずかな個展以外にはあまり展覧会に出品されず、多くは新聞、雑誌、本などの印刷媒体を通して発表され、人々が身近に鑑賞できるものだった。
このような特徴を挙げることができますが、「浮世絵」との関係については夢二自身が書いたものが残されています[長田幹雄編「特集竹久夢二第三集」『本の手帖』1967、210頁以下]。夢二が浮世絵に共感したのは、浮世絵師の「聖地」は庶民生活で、その点で自分と同じだと思ったからです。ここには「芸術はもうたくさんだ」という、当時のアカデミックな美術へのいらだちも示されています。
他方で浮世絵の美人画とみずからの美人画との違いも語られています。浮世絵の人物は「非人情」(感情表現が不十分)で、その原因は「手が小さい」ことにあると言われています。これに対して自分の描く人物の手は大きく、浮世絵師は手が感情表現にとって重要な役割を演じることを「知らなかった」と夢二は言います。手の大きさ、これは夢二式美人画の見逃すことのできない特徴です。この点で夢二式美人画の代表作の一つとみなされている《黒船屋》がオランダ出身でパリで活躍した画家ヴァン・ドンゲン(1877-1968)の《猫を抱く女》(1908)に倣ったものであることが指摘されています[小倉1986、37頁]。二人の作品を並べれば、この指摘が正しいことがわかります。
帯の高さの理由を知るうえで参考になる論文も公になっています。一つは先に挙げた当時のメディア環境について論じた論文で、そこでは「帯の高さ」についても論じられています[高橋2010、41頁以下]。それによれば、夢二の活躍した時期には、和装の女性の帯が腰より高い位置で結ばれることが流行っていたという社会現象が明らかにされています。新しいメディアの流通やファッションの時代性から作品特徴を明らかにする文化研究(cultural studies)、この新しい美術研究の視点から夢二絵画が捉えられていると言えます。
それとともに参考になるのは、もう一人の研究者による夢二の残したスクラップブックの分析です(高階1985)。当時は新聞、雑誌などの興味ある写真や文章の箇所を切り抜いて保存する「スクラップブック」作りが流行り出した時期でした。夢二もそれを行っていたわけで、スクラップブックには、海外の雑誌などから切り抜いた写真が多く含まれていて、その中に高い位置で帯を結んだヨーロッパ女性の写真も含まれていることが明らかにされました。これが夢二の美人画における帯の高さの発想源になったと指摘されています。この論者はそこに、当時ヨーロッパで花開いたジャポニズムの日本へのいわば逆輸入現象をみるのですが[同115頁]、これは夢二式美人の特徴を理解するうえで貴重な情報だと言えます。
夢二は、アカデミックな美術学校とは異なるかたちでみずからの関心に応じて東西新旧の芸術を独学で学び、多様な技法を習得しながら作品にしていった作家だったと言えます。このような夢二の習得した多彩な技術を端的に示すのが「セノオ」楽譜の表紙デザインです。表紙には西洋音楽、日本音楽すべてに渡って曲にふさわしいデザインが施され、セノオ楽譜は多くの人が買い求めた人気商品でした(長田「夢二挿画『セノオ楽譜』目録」参照)。後に歌手になる淡谷のり子が青森で女学生時代に魅入られたのもこの楽譜でした。またこの楽譜には、夢二自身が作詞した歌も含まれています。中でも《宵待草》(1918年)は大ヒット曲になり、今も歌われています。このように夢二は、美術や文学だけでなく音楽にも関わっていた、文字通り特定の文化やジャンルを超えて多くのものを取り入れながら制作を続けた作家、その意味で「超・脱領域的作家」だったと言えるでしょう。このような中で「夢二式美人画」も生み出され、それが大正時代の女性を思い浮かべるときの人々の共通イメージになったのです。「夢二神話」が生まれたわけです。

第2章 夢二のベルリン講義
夢二は晩年アメリカを訪れカリフォルニア、ロスアンジェルスで展覧会を開きました。1932(昭和7)年、48歳のときです。この展覧会はさほど注目されずに終わりましたが、かれはそのままヨーロッパに渡り各地を回りベルリンにも滞在しました。そのとき夢二は、かつてバウハウスの教師だった芸術家ヨハネス・イッテン(Johannes Itten, 1888-1967)が開いていた私設美術学校(Itten Schule)で講義をする機会を得ました。講義題目は「日本画の概念」で、その日本語の手書き草稿(「日本画の概念に就いて」)とドイツ語草稿(“Der Begriff der Japanischen Malerei”[日本画の概念])が残されています。日本語草稿にあった「日本の服装における愛の表示」と題する節は省かれ、代わりに「線に就いて」というタイトルの草稿が加えられています。先方の求めで変更されたものと思われます。 このドイツ語草稿を読むと、夢二の絵画に対する考え方がよくわかります。夢二の講義は、15世紀の日本画(「狩野、土佐、春日」の絵画)はまだ「中国北画の転用」にとどまるのに対して本来の「日本画」(「郷土的日本画})がはじまるのは、「16世紀、千利休、本阿弥光悦、俵屋宗達」からだという言葉ではじまっています。光悦は優れたデザイナー、そし書家であり、宗達も絵画、デザインに優れ、絵画では「余白」の名人としても知られており、二人の合作も残されています。光悦、宗達は、彼らに続く尾形光琳とともに、日本のデザインにおける偉大な先駆者とみなされてきました。かれらは近代的な意味での「芸術」の一領域にとどまらない超-境界的作家でした。光悦、宗達は、夢二にとって制作の手本になったと言えます。 次いで夢二は「西洋絵画」と比較することで「日本画」における「線」の重要性を強調します。「西洋画」では「光の中」に「物」を見て、それを表現するために「面」に「陰影」をつける。それによって「塊と奥行き」が生れる。こうして物の「存在状態」を描くと「画面は完成されたと言われる」。このとき夢二は当時一般化してきていたアカデミックなデッサンを思い浮かべていたと言えます。「西洋画」の特徴として夢二が見ていたのは「均斉」でした。それは画面の統一感、その意味での完成度を意味していたと思います。というのも、夢二は画面の「未完成」を日本画の特徴とみなしていて、それには「線」が大きな役割を担うと考えていたからです。「線は、動的で、意味を求め、時間的なので、線は内的生命を輪郭づける表現に向いている。線が魂の完全な象徴になることによって、内面的動きが表現される。ここに画が生れる」、「すべてを未完成にしておく心は、未来の完成を約束する」、このように語られています。
画面を「未完成」にしておく「余白」、「長く棚引く霞で遮られた山や、画面で中断されたように描かれた木々」がその例として挙げられています。それらの技法は「存在するものよりも存在可能なものに想像の喜びを見出すために、動きの可能性を示す試み」だと夢二は指摘しています。私たちが見てきたように、夢二はこのような暗示的な線の技法を自分の作品に取り入れていたわけです。これによって見る者に「想像の余地」が残されることになり、絵画は「生命の働き」を捉えたものなると言われています。それによって「精神」は「物質」に移入され、物質は「有機的輝き」を手に入れ、これが「気韻生動」だというわけです。「日本画においては、技術の効果は線に負っている。それゆえ、日本画は心を手に、さらに手を筆に伝えるための絶えざる修練をわれわれに要求する」。この言葉が講義で夢二が伝えたかったことだと言えるでしょう。
これが日本語草稿とドイツ語草稿との両方に見られる講義の概要です。この講義草稿を通して、私たちは絵画に対する夢二の考え方を知ることができます。夢二は連想を誘う線の「暗示力」を知っていた画家でした。その意味で夢二は東洋の伝統的な水墨画の継承者だと言えます。実際夢二は講義において、「南画(文人画)」こそが「自分の好みからしても日本画の正道だ」と語っています。
夢二の時代には、一方で西洋絵画を学んだ「日本画」や「西洋画」が美術学校で教えられ、それが絵画の主流になっていましたが、他方では「南画(文人画)」と伝統的な「書」が、知識人の基本的な教養としてなお生きていました。夢二は、西洋絵画に基づく近代日本の美術教育に拘束されることなく、伝統的な書や南画の線の技術をほとんど独学で習得し、この技術に基づいて「東洋的」であると同時に「西洋的」な夢二絵画や夢二デザインを生み出したといえます。
夢二は西洋的透視図法も習得し、「西洋画」も描いています。しかし夢二は西洋絵画の影響を受けましたがそれに拘束されることなく、それを自由に取り入れて「夢二的絵画」や「夢二的デザイン」に変換しました。この変換に際しても、東洋の伝統的な文人画に見られる「線」の技法が生かされていることが夢二絵画の特徴だと言えます。

第3章 夢二と中国近代マンガの始祖豊子愷
夢二の中国マンガの始祖(「鼻祖」)豊子愷(Feng Zi-kai, 1898-1975)への影響は、今世紀になって中国出身の若手研究者によって相次いで日本語で公にされてきました。
子愷は近代中国の代表的知識人として今も尊敬されていますが、同時にかれは近代中国マンガの「鼻祖」と呼ばれ、かれのマンガは「子愷漫画」として今も高く評価されています。しかし1960年代の文化大革命のときには、子愷は「反動的学術権威」として批判され、革命の終結を待たずに亡くなりました。名誉回復は死後の1979年でした。子愷批判の理由の一つが日本への「遊学」にあったと言われています[楊1998,18頁、45頁、陸2007年、119頁]。
子愷は、1921(大正10)年に写実的な西洋絵画を学ぶために来日しました。まさに夢二が人気絶頂のときです。子愷は書店で偶然『夢二画集 春の巻』を見て感動し、購入しました。西洋画を学ぼうと来日した子愷が、東洋的な線を用いて日本人の近代都市生活を描く西洋的・東洋的な夢二の絵画との出会いによって、改めて中国文人画の伝統の意義を再認識することになりました。
中国出身の研究者による研究では、子愷の夢二受容を示す典拠として『豊子愷文集』(浙江教育・文芸出版社、全7冊、1990年)における、夢二に関する子愷の文章が引用されています。その中で子愷は夢二の「画風」に「東洋と西洋との」「融合」を見出し、「構図」と「形」が「西洋的」で、「画趣」と「筆致」が「東洋的」だと語っています。「最大の特色」として「詩趣」に「富んでいる」点が挙げられ、夢二は多くの漫画家の「浅薄な趣味を排除して人生の深遠な味を描きだしている。絵を見る人にまるで一首の短詩を読むような感を与え、余情が心に残って消えることはない」という賛辞がそれに続きます[西槇2005、171頁]。
子愷は、東京の書店ではじめて出会った夢二の画集に、私たちが先に見た夢二絵画の東洋的、文人画的特色を見出し感動したのです。子愷が来日した時期は、日本における文人画再興の時期と重なる点も指摘されています[西槇2005、54頁、陸2007、24頁]。一方で西洋化が進み、他方で文人画の伝統が見直されつつあった大正時代の日本で、子愷は夢二の作品に出会ったわけです。子愷は東京滞在時に、音楽演奏も学び、また近代西洋絵画、特にミレーとゴッホを受容したことも指摘されています[西槇、70頁以下]。
子愷の日本滞在は、経済的な理由もあってわずか10ヶ月で終わりましたが、このとき偶然出会った夢二の絵画はきわめて印象深いものだったようです。帰国後も子愷は友人を通して夢二の画集『夏の巻』、『秋の巻』、『冬の巻』、『京人形』、『夢二画手本』を購入しています。絵画制作においても、子愷は夢二の作品をもとにした素描を試みています。
子愷の夢二への関心、両者の共通点は、「詩と画の融合」とともに、「含蓄の妙味」にあると言われています。またそれを表わすときの絵の特徴として、「不完全な顔」、「後姿と横顔の魅力」、「余白の美」が挙げられています[楊、25頁以下]。 子愷研究においては、当然ながら子愷と夢二との違いも指摘されています。大きな違いとして指摘されているのは、子愷は「夢二式美人画」に相当するような美人画を描くことはなかったという点です[楊、48, 55頁、西槇、175頁]。子愷が関心を抱き学んだのは美人画の夢二ではなく、「社会主義時代の夢二」であり、「夢二の風俗画的要素」だとみなされており、このような子愷の夢二受容の特徴は、「仏教信者」としての子愷の姿勢を示すものだと解する研究者もいます[楊、50頁以下]。子愷の作品は夢二の作品に比較して、より強く社会生活に訴えかけるものだというのが現在の子愷研究の共通の理解になっていると言えるでしょう。2012年、山西博物院で子愷の展覧会「豊子愷漫画選 禅意 閑趣 化境」が開催されました。このとき展示された子愷漫画を見ると、豊子愷についての上のような理解は当たっていると言えます。描かれているのは、市井の庶民の生活であり、庶民への子愷の共感です。先に指摘された子愷の夢二受容の特徴(「不完全な顔」の表現、「後姿や横顔の魅力」、「余白の美」)が、これらの作品にも見いだせます。
夢二が「画家」の世界を超えていたように、子愷も「画家」を超えた「文人」、しかも夢二以上に豊かな知識をもった「文人」であり、多元的な作家だったといえます。上に見たように、子愷は夢二の絵画のみでなく西洋絵画からも多くを学んでいました。またかれは教育者であり美術の理論家であり、美術制作のみか音楽演奏も行い、文学にまでおよぶ多様な分野の出版物の翻訳者でもありました。子愷はまた夏目漱石の研究者であり、『源氏物語』の翻訳者でもありました[楊、二、三章]。子愷は近代中国が生んだ文字通りの、しかも偉大な「文人」だったと言わなければならないでしょう。
現在では、子愷は中国の優れた知識人の一人として再評価されるようになり、また特に「近代中国漫画の始祖」として尊敬を集めています。中国の都市では、大学などの公共施設の多くは保安のために高い塀で囲まれていますが、その壁面には、政府によって政治的なメッセージが示されており、その背景に著名な画家や漫画家の作品の模写が描かれています。その中には必ずといっていいほど子愷の作品、特に山水画、子愷が東京で夢二の絵画を見てその意味を再認識した中国伝統の山水画が含まれています。子愷が夢二絵画に見出した東洋的文人精神、これは夢二絵画の理解の点でも正しい理解だったと言えます。

結び
これまでたどってきた夢二の仕事、特に「夢二式美人画」から言えるのは、眼の表現と手の表現、細身の体とポーズ、さらには絵に加えられる詩歌や小物、部屋や戸外の風物など、すべてが絵を見る者の連想を助ける装置として機能しているということです。すべてが描かれた女性の夢や希望や哀しみの世界を連想させ、このような連想の中で、夢二グッズも消費されたでしょう。「便箋」や「封筒」も、これからそれを送りたい人への連想をかきたてるグッズです。それが美しくデザインされていれば、連想はさらに甘く働くことになるでしょう。単純な色の組み合わせでデザインされた千代紙も、思わず懐かしさを覚えて手にしてしまいそうな魅力をもっています。夢二特有の柔らかな線とイメージ、色の組み合わせによって、それらは魅力的で美しいグッズとなって店に並んでいたわけです。
このとき感じられた美しさは、新しい美しさというより懐かしい美しさだったといえるでしょう。この美しさがこれまでの批評では、「抒情的」、「情緒的」、「センチメンタル」、「浪漫的」といった用語で語られてきました。人物像(特に女性像)に関しても、夢二が創造したのはまったく「新しいタイプ」の人物ではなかったと言えます。「まったくの新しさ」は「異質なもの」として最初は退けられるか、反発を引き起こすでしょう。これに対して夢二の作品は、人々の無意識の好みや夢にかたちを与えるという意味での「タイプ」を生み出したものだったと言えます。夢二の絵によって、人々は心の中でおぼろげに感じ求めていた理想的な女性像を、現に見ることができるようになったわけです。これが夢二人気、「夢二神話」の生まれる理由だったといえます。人々は、特に若い女性や男性は、夢二の美人画のうちに自分たちが理想としている女性のイメージ、自らの憧れのイメージを見出していたわけです。
森口多里が語っていましたように、夢二は近代化が進む日本の美術界における「表街道に居並ぶ作家」ではありませんでした。しかし子愷の夢二受容が示すように、夢二の作品は多様なかたちで、美術の専門領域を超えて、さまざまな人々の共感を呼び、多くの夢二ファンを見出していきました。「流行」現象になった夢二作品は、人々の共通の見方を作り出し、この見方が作家の死後も生き続ける、すなわち「不易」になった一つの稀な事例と言えるでしょう。今も私たちの多くは、「大正の女性」と言えば「夢二式美人画」を思い浮かべるのではないでしょうか。
この点で夢二と同時代の批評家森口が、夢二を「タイプを作った」作家と見なしたのは、優れた洞察だったと言わなければならないでしょう。夢二の作品、特に「美人画」は、その後の人々の大正美人の「不易」の見方になったからです。 〔なお今回の講義は、かつて公表した以下の小論、およびそれに基づく講演、講義のための原稿に基づいて進められました。岩城見一「竹久夢二、超-、脱-境界的〈画家?〉―〈夢二神話〉のハイブリディズム」[山野英嗣編『東西文化の磁場―日本近代の建築・デザイン・工芸における脱境界的作用史の研究』国書刊行会、pp.309-346、2013年]、岩城見一講演「豊子愷與竹久夢二」(中国藝術研究院、北京、通訳:郭萌、2015年11月23日)、講演「竹久夢二與豊子愷」(中央美術学院、北京、通訳:王雲、2015年11月23日)、講義「伝統とは何か―竹久夢二、「工芸」のハブリディズム(異種交配性)―」(「京都の伝統美術工芸1」講座、京都精華大学、2013~2019年)〕




【質疑応答】
以上がこのたびの講義の概要です。終了後「質疑応答」の時間が設けられていて、ご参加の方々から質問をいただきました。そのうちの三つのご質問は講義で省いた点に関わるものでしたから、以下にその場面を思い出しながら、私の答えと補足を記しておきたいと思います。

質問①:
夢二は女性関係で話題になりますが、それは夢二の美人画とどのような関係にあるのでしょうか。

岩城:夢二の女性関係については、これまで多くの人が話題にしてきましたので、今回は省きました。それと美人画との関係はあると思います。[〈付記〉夢二の描いた女性は、親しく交わった何人かの女性をモデルにしている点で夢二の作品に影響を与えていると言える。また、見る人は、夢二の絵に容易に「感情移入」でき、もろもろの「連想」に誘われるということは、女性が「連想」を誘うようなに描かれているということである。それを端的に示すのが女性の眼である。夢二の描いた多くの女性は後ろ向きや横顔、斜め向きになっており、正面を向く場合でも、眼差しは何か遠くを思うような焦点の定まらない眼差しになっている。これが見る者の「感情移入」、「連想作用」を容易にする。眼差しが見る者にまっすぐ向けられたときには、見る者の視線は跳ね返され、勝手な感情移入や連想は拒否されることになる。これはフェニミズム研究で「眼差し(gaze)」の問題として議論されている。この議論からすれば、夢二の描いた女性像は批判されることになるかもしれない。この点については、岩城「竹久夢二、脱-、超-境界的画家(?)―〈夢二神話〉のハイブリディズム―」山野英嗣編『東西文化の磁場』国書刊行会、2013年、326頁以下を参照。

質問②:
大阪の「柳屋」開店の時には、東郷青児も手伝い夢二が忙しい時には代わってデザインを制作したと聞いていますがどうだったのでしょうか。

岩城:はいそうだと思いますが・・・。東郷青児は学生時代から「港屋」に通い夢二の信頼を得てときにはデザイン制作を代役で行なったと言われています。この影響もあったのか、東郷青児も美人画を手がけ、昭和になって有名になりました。私たちの子どもの頃には、少し高価なアルバムの表紙装丁が東郷青児の美人画だったことを今も思い出します。しかし昭和を思い浮かべるとき東郷青児のあのような女性を思い浮かべるかと言えば、そのような人はそれほど多くはないでしょう。これが夢二と違う点ではないでしょうか。

質問③:
夢二の美術館はたくさんあると思うんですが、どのような美術館がありますか。

岩城:はい、仰るようにかなりたくさんありますね。生地の岡山をはじめ群馬県伊香保の夢二美術館、東京の弥生美術館、金沢の湯涌夢二館など。このように多いのは、夢二の作品が多くの人に購入され保存され、それがもとになって美術館が開かれたり、それらの寄贈によって美術館が開設されたりしてきたからでしょう。現代になってもそのような収集品が寄贈されています。京都国立近代美術館は神戸におられた版画家川西英氏のコレクションを購入しましたが、そこには夢二の作品が切り抜きや雑誌も含めて多く含まれおり、それに基づく展覧会も開催されました。静岡市美術館にも夢二の作品を集めておられた女性からの寄贈で夢二コレクションができました。これも展覧会になりました。かつて私が大学で夢二について講義しましたときにも、学生さんが来て、私の祖母の箪笥には夢二デザインの封筒や雑誌の切り抜きなどがあります、と言われました。このように夢二作品は多くの人、特に女性によって大事に保存されてきたと言えるでしょう。皆さんのご実家の古い箪笥のなかにも夢二作品はあるかもしれません。



【参考資料】(abc順)
はじめに
第1章
秋山 清「〈夢二亜流〉論」『本の手帖 特集竹久夢二第三集』1967年4月、長田幹雄編『竹久夢二』昭林社 昭和50年所収
有島生馬「夢二のこと」有島生馬・恩地孝四郎・竹久虹之助編『竹久夢二遺作集』アオイ書房、1936年
有島生馬「夢二追憶」『本の手帖 特集竹久夢二第一集』1962年1月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
有本芳水「夢二と私」(『本の手帖 特集竹久夢二第三集』1967年4月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
浅見淵「夢二のこと」『本の手帖 特集竹久夢二第三集』1967年4月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
淡谷のり子「夢二の思い出」『本の手帖 特集竹久夢二第三集』1967年4月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
普門暁「夢二の思い出」『本の手帖 特集竹久夢二第二集』1962年7月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
河北倫明「竹久夢二 流離の詩愁」河北倫明・小倉忠夫著『竹久夢二 村山槐多 関根正二』(『日本近代絵画全集』8)講談社、1963年
宮崎白蓮「夢二さんのこと」『本の手帖 特集竹久夢二第一集』1962年1月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
森口多里「美術史の中の夢二」『本の手帖 特集竹久夢二第二集』1962年7月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
中原綾子「夢二さんの思い出」『本の手帖 特集竹久夢二第一集』1962年1月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
中尾優衣「〈川西英コレクション〉と柳屋」『京都国立近代美術館所蔵作品目録Ⅸ 川西英コレクション』京都国立近代美術館、2011年
中沢霊泉「夢二第一回展の頃」『本の手帖 特集竹久夢二第一集』1962年1月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
長田幹雄「夢二画集細見」『本の手帖 特集竹久夢二第二集』1962年7月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
長田幹雄「夢二挿画『セノオ楽譜』目録」『本の手帖 特集竹久夢二第二集』1962年7月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
小倉忠夫「評伝・竹久夢二 宵待草のうた」『夢二美術館 宵待草のうた』学習研究社、1985年
小倉忠夫「評伝 竹久夢二 人生と芸術を抒情した自由人」『竹久夢二・青木繁』(『20世紀日本の美術』第12巻)集英社、1986年
小野忠重「こわれた水車小屋」『本の手帖 特集竹久夢二第一集』1962年1月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
小野忠重「夢二と恩地孝四郎」『本の手帖 特集竹久夢二第三集』1967年4月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
大木惇夫「夢二について とりとめもなく」『本の手帖 特集竹久夢二第二集』1962年7月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
渋谷修「竹久夢二と私」『本の手帖 特集竹久夢二第一集』1962年1月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
須山計一「日刊平民新聞と夢二」『本の手帖 特集竹久夢二第二集』1962年7月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
高橋律子『竹久夢二 社会現象としての〈夢二式〉〉』ブリュッケ、2010年
高階秀爾「夢二のスクラップブック」『夢二美術館 宵待草のうた』学習研究社、1985年
竹久夢二「机辺断章」『本の手帖 特集竹久夢二第三集』1967年4月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
壺井繁治「きれぎれの感想―竹久夢二について―」『本の手帖 特集竹久夢二第二集』1962年7月、長田幹雄編『竹久夢二』所収
山野英嗣「〈川西英コレクション〉について」(『京都国立近代美術館所蔵作品目録Ⅸ 川西英コレクション』京都国立近代美術館、2011年

第2章
岩城見一「東洋絵画における〈色〉―画論とその周辺―」CROSS SECTIONS . vol.3、京都国立近代美術館、2011年
金子宣正「イッテン・シューレにおける日本画の授業について」 『大学美術教育学会誌』第25号、1993年
竹久夢二「日本画についての概念」有島生馬・恩地孝四郎・竹久虹之助編『竹久夢二遺作集』アオイ書房、1936年
Takehisa, Yumeji: Der Begriff der Japanischen Malerei(京都国立近代美術館蔵)

第3章
李新風「日本の近代美学、芸術思想の中国への影響」岩城見一編『芸術/葛藤の現場―近代日本芸術思想のコンテクスト』晃洋書房、2002年
陸偉栄『中国の近代美術と日本―20世紀日中関係の一断面』大学教育出版、2007年
陸偉栄『中国近代美術史論』明石書店、2010年
西槇偉『中国文人画家の近代―豊子愷の西洋美術受容と日本』思文閣出版、2005年
楊暁文『豊子愷研究』東方書店、1998年
浙江省博物館編『豊子愷漫画選 禅意 閑趣 化境』山西博物院、2012年

【会場の様子】

会場には、スクリーンが2面設置されています。この写真は、向かって右側のスクリーンを中心に撮影したものです。皆さん、熱心に聞いて頂き、感謝申し上げます。


【連絡先】

きょうと視覚文化振興財団事務局

〒607-8154 京都市山科区東野門口町13-1-329
電話 : 075-748-8232