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講座・講演会情報 講座・講演会情報

視覚文化連続講座シリーズ5 
「視覚文化の不易流行」第8回
講座レポート

上方舞山村流―座敷舞、地唄舞の魅力

山村侃氏

上方舞山村流舞踊家
日時:2025年4月19日(土曜)午後2時から3時30分
会場:同志社大学今出川校地良心RY305館教室
主催:きょうと視覚文化振興財団

【内容】
上方舞山村流とは
山村流の地唄舞
山村流の歌舞伎舞踊


【報告】

2024年度最後の講座は、上方舞山村流の舞踊家、山村侃氏をお招きして上方舞山村流の歴史と魅力についてお話をしていただきました。
山村侃さんは、平成4年(1992年)現在の山村流六世宗家山村友五郎の次男として生まれました。今年33歳ですが、伝統芸能の世界の常として芸歴は30年を超えていらっしゃいます。山村流のみならず上方舞の伝統を受け継ぐ舞踊家として、お兄さんの山村若さんと共に将来を大いに嘱望されている若手の舞手です。
ところで、今年度は、昨年11月にコンテンポラリーダンスという現代舞踊について矢内原美邦さんに講座を担当していただきました。コンテンポラリーダンスは西洋のクラシックバレエから生まれましたが、その色々な動きの約束事から脱出し、身体による自由な表現を追求する舞踊でした。それとは対照的に、上方舞は、地唄舞、座敷舞とも言われるように、地唄の詞に当て振りをし、動きを極力抑制して畳一畳でも舞える品格のある舞を目指す舞踊ということが言えます。したがって、コンテンポラリーダンスとは逆に、むしろ動きの約束事を丁寧に踏襲し、流れるような所作/振りを持続していく舞なのです。
とはいえ、両者は共に舞踊ですから、そこには共通する根本があります。それは、舞踊は「身体表現」だということです(この点については矢内原さんのレポートでも述べました)。けれども、大切なことは「身体表現」の「表現」の「形/形式」です。身体を動かしさえすれば「表現」になり「芸術」になるわけではないことは当然です。日常生活で目的地に向かって歩く行為だとか、茶碗を洗う手や腕の動きがそのまま「表現」となることはありません。芸術となるためには何らかの質的転換が必要です。その転換を推進するのが「形/形式」です。私は、芸術活動とはすべからく新しい表現の形を通して日常的現実意識から非日常的現実意識へと脱出していく行為だと考えています。

いま、新緑が美しい季節です。けれども「緑がきれいだなあ」と言っただけでは「芸術」とは言えません。その日常語はまだ日常的現実意識の枠内にあるからです。しかし、先人が様々の緑に覆われた山々を見て、「山笑う」という言葉を生みだしたとき(この言葉は北宋の画家郭煕の言葉とされています。『歳時記』では春の季語になっています)、言葉は新しい命を孕んで非日常的現実意識の世界を切り開いたと言えます。それと同様に、身体身振りも日常から脱出して非日常的領域へと入り込んだとき、「舞踊」になります。
山村侃さんが舞ってくださった『ぐち』では、恋人との逢瀬がままならぬことへの愚痴が、極めてゆっくり、ゆったりとした動きに乗せられ、得も言われぬ色香を醸す振りとなって表現されます。まさしく座敷舞の真骨頂を示す曲です。このゆっくりとした動きは日常生活の中ではありえません。コンテンポラリーダンスの激しく素早い動きはそのダイナミズムによって、一方上方舞は、それとは対極にあるゆっくりとした動きによって、それぞれが日常性を脱出しているのです。



『ぐち』


私たちは、このゆっくりとした動きに注目しなければなりません。それは能の動きにも通じますが、「ゆっくり」を突出した形で表現する別の芸術もあります。もうずいぶん前ですが、舞踏家・大野慶人が白塗りをし、白の衣装に全身を包んで客席から舞台上手に上り、ゆっくりゆっくりと舞台上を歩み、下手に消えていく、ただそれだけという舞踏を見たことがあります。あるいは劇作家・大田省吾の『水の駅』という沈黙劇(登場人物には一切台詞がありません)では、すべての登場人物が極めてゆっくりとしたテンポ―2mを5分で歩く、と大田省吾自身が語っています―で動作するのです。
しかし、この2作品と『ぐち』を同列に論じることはできないのではないかという疑いがあるかもしれません。というのも、『ぐち』の場合は、地唄の詞と舞の当て振りに引きずられて、日常性の中に留まっている作品だとみなされてしまう可能性があるからです。しかし、『ぐち』から地唄の詞を引き剥がして舞の振りだけを露呈させてみれば、その動作がいかに非日常的であるかは明らかです。私たちは、このゆっくりとした動きを驚きをもって捉える感性を持たなければなりません。そこには日常的現実意識を脱出した非日常的世界が展開されているはずなのです。
日常的現実意識と私が呼ぶのは、いわば精神のニュートラルな状態のことです。NHKの「チコちゃん」はいつも「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱るのですが、実はこの「ボーっと生きてる」ことが日常的現実意識の状態です。あるいは「ハレ(晴れ)」と「ケ(褻)」の「ケ」のことだと言うこともできると思います。それに対して、「ハレ」は非日常的現実意識のことになります。「ハレ」は祭式や儀式を差し示す概念です。祭式や儀式は特別の出来事ですから、そこでは緊張を強いられ「ボーっと」しているわけにはいきません。しかし、人間はこんな「ハレ」の状況に長くは耐えられません。「ハレ」は「ケ」という日常的現実意識を基盤として、初めてそこから生まれてくる、日常から突出した時間なのです。このような意味で、芸術は祭式や儀式とどこか似ているところがあると言えるでしょう。



『松づくし』


話が脇道にそれました。芸術活動とは、新しい表現の形を通して日常的現実意識から非日常的現実意識へと脱出していく行為だと言いました。分かりやすく言えば、「ボーっと生きてる世界」から「ハッとする世界」へと脱出していくことです。そして、その脱出を推進する力が「表現の形」なのです。侃さんの舞の中で「ハッと」する瞬間を捉えたとき、言い換えれば未知の表現の形を認めたとき―ここでもその形を驚きと共に受容する感性が必要です―、私たちは今まで経験したことのない「舞踊的現実」を目の当たりにし、もって「芸術世界」に触れたことになるのです。

昨年6月、山村侃さんから当財団発行の『美術フォーラム21』第49号に「舞の論理」と題する論攷を寄せていただきました。その中で、舞台で舞う際にもっとも重要なことは舞台の非日常性が崩れないようにすることであると述べ、その非日常性が崩れる要因として最も大きいことは、舞手の素がでてしまうことだと指摘されています。そして、素が出てしまうということは「普通の日常的な動作が顔をのぞかせてしまうということ」だとして、次のように述べられています。



素というものは往々にして振りと振り、つまりポーズとポーズの間に出てきてしまうものである。目線の動かし方、袖の取り方、扇子の取り方、手を上げ下げするだけでも素というものは出てしまう。ポーズはもちろんのことその間の流れにも細心の注意を払わなくてはいけない。特に山村流は、淀みなく水が流れるかの如く舞うことが特徴となっているので、どこを切り取られてもまるで絵に描いたような姿になることを理想としている。すなわち、素の動作とは形つまりは舞としての「像」ができていない日常の動き、姿だということになる。(『美術フォーラム21』第49号、89頁)


ここには山村流の舞において、日常と非日常の峻別、舞としての「形」=「像」を作ることがいかに重要であるかが簡明に説かれています。
 
今回、侃さんには『ぐち』と『松づくし』の2曲を実際に舞っていただきました。狭い教壇ギリギリに敷いた二畳の畳表の上で、恐縮至極ではありましたが、快く舞っていただき、聴講の皆様にも喜んでいただけたものと思います。上方舞を生で観る機会はそうはないと思います。これを機会に上方舞に興味関心を持っていただければ、個人的にもありがたく思います。(IN)





【会場の様子】

皆さん、熱心にご覧になっています。ちなみに、この日は、「山村流舞扇会」(5月25日午後1時から、於国立文楽劇場)のチケットの抽選がありました。侃さんがチケットを持ってくるのをお忘れになったので、当選者5名の方には、後日、郵送ということになりましたが・・・。ご配慮に感謝します。

【連絡先】

きょうと視覚文化振興財団事務局

住所 : 〒607-8154 京都市山科区東野門口町13-1-329
電話 : 075-748-8232