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視覚文化連続講座シリーズ6 
「無病息災と視覚文化」第7回
講座レポート

《病草紙》と六道思想:浄土への憧れ

加須屋誠

京都市立芸術大学客員研究員
日時:2026年2月21日(土曜)午後2時から3時30分
会場:同志社大学今出川校地寧静館N36教室
主催:きょうと視覚文化振興財団


【内容】
1)
はじめに:病気の構造
2)
《病草紙》:詞と絵
3)
六道と浄土:輪廻と往生
4)
『往生要集』と臨終行基
5)
まとめ


【報告】

今回の講師である加須屋誠さんのご専門は日本の仏教美術史。加須屋さんは中世の仏教絵画についてたくさんの著書を出版されています。ちょっと昔の話になりますが、1970年から80年代にかけて欧米に台頭した「ニュー・アート・ヒストリー」という新しい研究動向が、1990年代の日本美術史に波及したとき、加須屋さんはその旗手のおひとりでした。では、何が「新しい」のか。簡単に言うのは難しいのですが、従来の美術史が様式論(形の歴史)や図像解釈学(意味の解釈)に注力していたのに対して、絵画表象をジェンダー(性役割)やクラス(階級)、レイス(人種)といった社会的な文脈(権力関係)に位置付けて理解することに特徴があったように思います。今回のお話でも、《病草紙》の分析の仕方は、鑑賞者である天皇という権力者の眼差しに焦点を合わせるという点で、まさに面目躍如といったところでしょうか。もっとも、「はじめに」で提示された「病気の構造」は、病気をさらに広い文化的な文脈に位置付けて理解しようとされているようにも思います。以下、加須屋さんご自身に、お話の概略を報告していただくことにしましたので、じっくりお読みいただければ幸いです。(KF)



1)1) はじめに:病気の構造

「病気」とはなにか? それが身体的な不調であることは云うまでもありません。しかし、それは身体の層だけにとどまらず重層的な構造を有するものと私は考えます(配付資料参照)。まずは、その歴史的側面に目を向けてみましょう。

2)《病草紙》:詞と絵

「病草紙」は十二世紀末に後白河法皇が主体となり制作された絵巻物です。本作品所収の一図「霍乱の女」では、霍乱(=嘔吐と下痢)に苦しむ女が主役です。その周囲には看病する女性たち、目を凝らすと画面左端に赤子、右端には犬が描かれています。作品を分析するとき「なにが描かれているか」に目を向けるだけではなく、「なにが描かれていないか」を考えることも大切です。すると、この場面には「健常な」「成人の」「男性」だけが見当たらない。何故でしょうか?
そこで別の一図「肥満の女」を見てみましょう。本図は「肥満は万病のもと」と云うような教訓を図絵化したものでしょうか? 否、それは違います。詞書には一言も触れられていませんが、画面には二人連れの男たちと赤子に授乳する女が描かれています。彼らを含めて本図全体を解釈すると、それは下記のような構造として捉えられます。経済的に自立した主人公「肥満の女」は、家庭内で子どもを育てる「授乳する女」と対比され、男たちから蔑みの目で見られているのです。


さらにもう一図「眼病治療」を別のかたちで構造化したのが、下図です。本図は「ちかごろ、目が見えなくなった男」が主人公。彼が鍼治療を受けている様子を画面内(虚構空間)の左右と奥からじっとみつめる男女がいる。その視線は画面外部(現実空間)にいる本絵巻の鑑賞者のまなざしを誘導します。


ここで改めて「霍乱の女」について考えます。本図のまなざしの主体は画面外にいる鑑賞者です。それは後白河法皇をはじめとする高位の男性たち。画面内には登場しませんが、彼らは画中の赤子あるいは犬に変身して代理表象されているのです。例えば『古事記』に語られる厠で大便をする女性を三輪神が犯す話(神武の段)、『今昔物語集』に語られる土塀に尿をする女性を蛇が犯す話(巻29第39話)などを想起してみれば、この場面はエロティックな窃視のまなざしが向けられた場面であると読み解かれるのです(上記の構造図は、配付資料に挙げた加須屋2023から複写)。

3) 六道と浄土:仏教的世界観の構造

このように「病気」とは人間の歴史的文化の様相と深く関わります。しかし、それはまた人間界を越えた宇宙の構造にも位置付けられます。仏教ではそれを六つの世界の集まりと捉えます。六道世界は「輪廻」(生まれ変わり)する宇宙です。これに対して、別の宇宙として浄土を想定します。極楽に代表される浄土は「往生」(生死の超越)を遂げることで、永遠の幸せに到達できる宇宙です(配付資料参照)。

4) 『往生要集』と臨終行儀

十世紀末の天台宗僧侶・源信が撰述した『往生要集』によると、病床に伏した者が輪廻を絶ち往生を遂げるとき「来迎」(極楽からの阿弥陀如来のお迎え)があると説かれます。それゆえ、平安~鎌倉時代の人々は来迎の場面を描いた絵画(阿弥陀来迎図)を身近に置いて、自らの死(臨終)に備えました。来迎図に五色の糸の片方を懸けて、もう片方を病人自身の手に結び、末期の目で救済を夢見ながら息を引き取る。この仏教儀礼を「臨終行儀」と云います(配付資料参照)。
 現存する絵画作品では、京都・金戒光明寺蔵「山越阿弥陀図」に五色の糸が残存しており、これが臨終行儀に用いられた絵画であることが分かります。また、同寺には「地獄極楽図屏風」も所蔵されています。これには現世と地獄と極楽が描かれている。つまり、仏教的宇宙の縮図です。現代の私たちは両作品を展覧会のガラスケース越しに鑑賞しますが、それは誤った観覧の仕方です。では正しい見方、すなわち臨終行儀の現場でかつてそれはどのように付置され、眼差しが向けられていたのか? それを探るため、京都・知恩寺蔵「法然上人絵伝」に見られる臨終行儀の場面に両作品を当て嵌めた仮想図を作成してみました(配付資料参照)。すると、自らの極楽往生を幻視する病人のまなざしとともに、看取りの人たちのまなざしが重要であることに気がつきました。彼らは病人の死出の旅路が無事に完遂されて、その魂が往生を遂げることを願っていたと推察されます。人と人とは、魂の層において結びつくのです。

5) まとめ

病を得て、それが重篤となり、やがて死を迎える――その過程は人の一生が短期的にintegrate(インテグレート=集積)されたものであると云われます(rf.柳田邦男『「死の医学」への序章』新潮社、1986年)。とするならば、最初に挙げた「病気の構造」とは翻って「人間の在り方」そのものを示すものではないか。人文学としての「美術史学」は、イメージを解釈することを通じて、歴史から魂まで、善悪が入り混じった人間の全存在そのものを追究する学問だと私は考えます。(KM)



【主要参考文献】
【配布資料】をご覧ください。




【会場の様子】

お話はちょうど《病草紙》の「霍乱の女」の場面のようです。「霍乱(かくらん)」とは『日本国語大辞典』によれば「きかくりょうらん(揮霍撩乱)」の略で「もがいて手を激しく振り回す意から」「暑気あたりによって起きる諸病の総称。現在では普通、日射病をさすが、古くは、多く、吐いたりくだしたりする症状のものをいう。今日の急性腸カタルなどの類をいったか」とあります。女性が縁側で、苦しそうに嘔吐と下痢をしていて、これは大変ですねえ。もっとも、加須屋さんは、女性を縁側という半公的空間に配置する図像の系譜(『伊勢物語』第23段「筒井筒(つついづつ)」など)を引き合いに出して、この図の外部に女性を覗き見する男性(鑑賞者)の眼差しを想定されます。このような見る者(男性)と見られる者(女性)の力関係を暴くことも、美術史の仕事のひとつです。

【連絡先】

きょうと視覚文化振興財団事務局

住所 : 〒607-8154 京都市山科区東野門口町13-1-329
電話 : 075-748-8232