【須田国太郎】
《 島田康寬 》
【トップページの作品紹介】
大正8年(1919)に渡欧した須田は、翌年10月から1月ばかりスペイン北西部に旅行した。この時に描いた作品の1点で、アーヴィラは11世紀に築かれた城壁都市である。西日に照らされた、教会を中心とする風景は赤みを帯びた褐色に染まり、微妙な明暗のうちに構築的、かつ印象的に捉えられている。須田の遠近表現の基礎をなす構成である。昭和7年(1932)、東京・資生堂ギャラリーにおける第1回個展に出品され、谷川徹三によって購入された。この時の個展で唯一売れた作品であり、谷川が生涯寝室に掛けていた作品でもある。徹三没後、息子の俊太郎氏から京都国立近代美術館に寄贈された。
前景のテーブルの上には一輪の椿を活けた鉢が置かれ、中景を省略して遠景の山並みが明るく輝いている。明暗の対比が極端とも言えるこの遠近表現は、須田が滞欧期にバロック絵画から学んだもので、その画面構成を生かした作品である。帰国後の須田は、南山城から大和にかけての東縁に南北に連なる山並みを繰り返し描いており、多くはこの手法を用いている。しかし、やがてこの手法からは色彩が失われていることに飽きたらなくなった須田は、色彩の探求へと移っていく。その意味で過渡期的とも言える作品だが、この時期の優作であることに変わりはない。昭和9年の第4回独立展出品作。
風景画のほかに、須田は動物や植物をよく描いた。新婚生活を営んだ北区出雲路松ノ下町(1925-30)も、元津田青楓のアトリエに移った左京区鹿ヶ谷桜谷町(1930-39)も京都府立植物園に近く、その後の晩年を過ごした左京区南禅寺草川町は京都市動物園に近かった。それがこれらのモチーフに取り組む契機となったと思われるが、花の中でも特に好んだのは薔薇である。色鮮やかで生気に満ちた薔薇は、油彩画だけでなく、水墨画でも描かれ、生涯の重要なモチーフだった。しかも、そんな薔薇といえども作品となると色彩、明暗の階調によって生まれる存在感は圧倒的で、画面は重厚である。
晩年の作である。この年2月中旬大量の出血に見舞われて自宅療養、5月には京都市立美術大学学長代理の辞任も認められた須田は、激務から解放されてしばらくは小旅行なども行ったが7月初旬には再び吐血して入院、以後は長らく記されていた日記もここで終わる。この作品はそんな5月に描かれたもので、作品に漂う雰囲気は、前景に魚のある構図に《浜(室戸)》(1949)を、明暗の調子に《鵜》を想起するが、具体的には制作場所を特定できない。また、1950年代を中心に見られる黒色の積極的な使用と、晩年の《ある建築家の肖像》(1956)に特徴的な表現主義的な心象性も読み取ることができる。1961年の《めろんと西瓜》を絶筆として、以後絵筆を執れなかった須田の心情さえ想像させる。第4回日本国際美術展出品。