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視覚文化ワークショップ 視覚文化ワークショップ

2023年度 第3回 視覚文化公開ワークショップが開催されました

2023年度3回目の視覚文化公開ワークショップが、10月22日(日曜)午後1時から5時30分頃まで、同志社大学今出川校地寧静館34教室で行われました。大学HPによれば、寧静館は「2021年からの改築工事を経て2023年に竣工、同年秋学期より運用を再開」とありますから、まさに出来たてのほやほや。報告者である杉山卓史研究員をはじめ、天野和夫、佐藤守弘、はがみちこ、渡辺亜由美研究員が全員集合しました。また、熱心な研究者や学芸員の方、院生の方々も来場され、Zoomでも6名の方々に参加していただきました。嬉しい限りです。今後とも、奮って参加していただくようお願いします。

杉山卓史研究員


今回の発表は杉山卓史研究員の担当です。「レトリックとしての展示」というタイトルで、古代ギリシアから近代美学までを貫く説得の技術(修辞学/弁論術)という観点から、「展示」という行為を考察されました。「説得する」あるいは「納得させる」という行為は、現代で言えば、テレビCMとかキャッチコピーのことを考えればお分かりのように、本来、主張したり、指令したり、約束したりすることに《よって》遂行される、相当にいかがわしい - 必ずしも「真/偽」という基準に拘束されない - 行為です。したがって、変な言い方で恐縮ですが、「展示」という行為の本来的なあり方を考察するには、うってつけの観点だと思うのです。というのも、これまでの一連のワークショップで明らかにされたように、「展示」というものは、本来、複数の目に見える作品を選択し配列することによって、目に見えない何か - 作品を産出する作者や、展示する人、また、展示を見る人に関する何か重要なこと - を表象する行為だと思われるからです。お話は、修辞学、美学、政治家の演説、美術館での作品展示、絵画論、野球のチーム構成と盛りだくさん。ということで、今回の報告も、杉山さんにご自身にお願いすることにしました。(K)


「レトリックとしての展示」

杉山卓史(京都大学大学院文学研究科准教授)


【概要】
膨大なコレクションの中から何を選び、どのように配置してどのように説明するか。展示において肝要なのは、こうした観点です。ところで、これらについての研究は、西洋の人文学の中で長い伝統があります。それが、「どのような話題を」「どのような順で」「どのような表現で」組み立てて弁論(スピーチ)とするかを考察してきた「修辞学/弁論術(rhetoric)」です。そして、この修辞学/弁論術が報告者の専門である「美学」の母胎となったのです。「修辞学が終わりをつげたちょうどそのとき美学が始まる」(トドロフ『象徴の理論』)。本報告では、古代ギリシアから美学の誕生(18 世紀)に至るまでの修辞学/弁論術の歴史を回顧し、それが「展示」を考える上でどのようなヒントをくれるかを考察したいと思います。(杉山)

【内容】
0.
はじめに
1.
レトリックの歴史
1.1 古代
1.2 近代
2.
現代の政治弁論と法廷弁論
3.
レトリックの絵画への応用
4.
展覧会企画者は代表監督? 結に代えて


【報告】
美学の幕開けを告げたバウムガルテンの『美学』(1750/58年)は、当初の著者の構想では、大きく「理論(教授・一般)篇」と「実践(応用・特殊)篇」とに分かれ、さらに前者は「発見論」「配列論」「記号論」に分かれます(ただし、実現したのは「発見論」まででした)。これは、古代の弁論術の「発想」「配置」「表現」「記憶」「発声」 - スピーチの話題を考え、話題の順序を考え、話題の表現を考え、原稿を暗記し、そしてそれを声に出して披露する - という五つの構成要素の前半三つ(スピーチの原稿を作成する段階)にぴたりと符合します。同じ話題でも、順序や表現や声の出し方次第で与える印象が異なったという経験は、皆さんにもおありでしょう。その発想を芸術作品の考察へと応用したのが、美学という学科でした。ところで、この発想は「展示」にも応用できるのではないか。今回の発表を駆動したのは、こうした見通しでした。
 まずは歴史を振り返っておきましょう。弁論術の理論化は、古代ギリシアのアリストテレスにまでさかのぼります。弁論術を真実そのもの(イデア)ではなく「真実らしいもの」を追求するいかがわしい技術として批判した師プラトンと異なり、アリストテレスは『弁論術』においてこれを「どんな問題でもそのそれぞれについて可能な説得の方法を見つけ出す能力」と、いわば「説得のオルガノン」として規定しました。また彼は、弁論には議会用、法廷用、(一般)演説用の三種類があること、また、説得の方法にも論者の「人柄(エートス)」に訴えるもの、聴き手の「感情(パトス)」に訴えるもの、そして「言論(ロゴス)」そのものによるもの、の三種類があることを指摘しました。
 その後、弁論術の理論を完成したのが、古代ローマのキケロです。もともと弁護士であり、弁論の実践家としても多くの優れた演説を残した彼は、上述の「発想」「配置」「表現」「記憶」「発声」という五要素を確定し、さらにその中の「配置」の標準的な要素として「序言」「叙述」「分析」「確証」「反駁」「結語」を挙げました。また、ギリシアにおいては良しにつけ悪しきにつけ「技術」「手段」にすぎなかった弁論術を「人間性」という「理念」「目的」としたことも、その後の西洋世界に大きな影響を及ぼした彼の弁論術論の特徴といえます。
 こうして西洋の弁論術史をたどってみると、現在のわれわれが「レトリック」として思い浮かべるものは、その一部(すなわち「表現」)にすぎないことが分かります。「レトリック」を本来の意味で捉えなおし、さらにそれを見せ物としての演説に限定せずに議会や法廷での弁論をも視野に入れることで、レトリックはさまざまな分野に応用されうるでしょう。こうした観点から、発表ではいくつかの政治弁論と法廷弁論を紹介しました。
 造形芸術の「展示」も、こうしたレトリックの考え方の浸透した領域にほかなりません。発表では、美学成立期の展示例として、ドレスデン絵画館を取り上げました。同館は、シェリングやヘーゲルも訪問してその鑑賞体験をそれぞれの芸術哲学講義に盛り込んでいることから近年注目を集め、当時の展示状況を復元する試みがなされています。それによれば、18世紀半ばの内ギャラリーの最初の大壁面の中央には、コレッジョの《聖ゲオルギウスの聖母》が置かれ、それと対称になるようにコレッジョの《羊飼いの礼拝》とクレーヴェ(当時はデューラーに帰属)の《東方三博士の礼拝》が配置され、同テーマの南北比較を促す構成となっていました。ここには、ド・ピールが『絵画原理講義』(1708年)において「配置」として「配置」「主題の配分」「グループ化」「位置の選択」「対照」などを挙げていたことの影響が見られますが、このド・ピールの絵画論自体も - 「発見」「配置」「素描」「彩色」「明暗」などから構成されていることが示すように - 弁論術の応用でした。また、内ギャラリー全体としては、《羊飼いの礼拝》と対になる位置にラファエロの《システィーナの聖母》が配置され、この二作品が当時の同館の「両横綱」という評価を受けていたことが分かります。
 以上のように考えてみると、弁論術の構成要素と展示のそれとの対応関係は、次のようになるのではないでしょうか。


弁論術 − 展示
 発見 − 出展作選定
 配置 − 構成
 表現 − キャプション・解説
 記憶 − ?
 発声 − 広報・イベント


ただ、最初の出展作選定という段階において、展覧会企画者はどれほど「自由に」選定することができるのか、非常に心許ないように思われます(特に企画展覧会の場合)。そう考えると、展示においては出展作選定と構成とは相互に入り交じっている、すなわち、ある作品を出展すると決定すると、それに合う作品は何か(=構成)を考えて次の作品を選定する、というプロセスの繰り返しではないでしょうか。このプロセスに近いように思われるのが、チームスポーツの代表(ナショナル)チームの編成です。代表監督は、必ずしも自分の意のままに選手を選べる(招集できる)わけではありません。軸となる選手を定め、その選手に合わせるように他の選手を選出していく、というのが実情です。「ベストナイン」(野球)・「ベストイレブン」(サッカー)・「ベストフィフティーン」(ラグビー)が「ベストチーム」であるとは限らないのです。その意味で、展覧会企画者は代表監督に比することができるように思われます。
 発表後のディスカッションで話題になったのは、主に以下の諸点でした。①言語による演説を構成する弁論術と、形と色を用いる造形芸術の展示の相違点は。→時間軸に沿って進む不可逆的な演説と、上下左右に目を任意に動かして見ることのできる造形芸術とでは、その「配置」の性格は、当然異なります。演説における「配置」において問題となるのが時間軸上に並べる話題の前後関係であるのに対して、造形芸術においては全方位的な「構成」が問題となります。②展示において「記憶」に対応するのは何か。→弁論術における「記憶」が演説内容を頭に入れる行為であることに鑑みれば、これは、作品を美術館やギャラリーという空間に入れる、すなわち「設営」するプロセスなのではないか、という指摘がありました。③「発見」と「配置」のみならず、「配置」以下の諸要素も展示においては相互に入り交じっているのではないか。→たしかに、その通りです。「配置(→構成)」を考えることは、その配置(作品と作品の間)にある「論理」(厳密な意味でのものではなく「論理めいたもの」=「修辞」としてのレトリックを含む)を考え表現することにほかなりませんし、その表現は(上述のように「記憶」に対応するのが「設営」であるとすれば)設営方法とも密接にかかわるでしょう。④日本において弁論術が発展していない要因は。→「弁論術の東西比較」まで考察する余裕・能力はありませんが、日本においては「巧言令色鮮矣仁」という儒教的な価値観が支配的であったこと、「表現」という点では、日本語には「韻(を踏む)」という要素が乏しいこと、などが考えられます。(杉山)



【会場】

PPTの画面が青いのに、今頃気が付きました。当日はまったく気が付かなかったことからすると、文字が読みやすかったのかしらん。なお、このカメラアングルには、少数の方々しか写っていませんが、カメラの背後にも、熱心な参加者がおられます。また、この教室は、Zoomによって、世界に開かれています。奮って参加していただくようお願いします。



【連絡先】

きょうと視覚文化振興財団事務局

〒611-0033 宇治市大久保町上ノ山51-35
Tel / Fax:0774-45-5511